供養のお話

 

人は善に向かっても、悪に向かっても、無限の可能性があります。

向上して神や仏の境地にまで達するのも、
地獄の底のような 悪の極致に堕ちこむのも、人間です。

上に向かえば神にも仏にもなり、下に向かえば地獄となるのも
もとは一つの心です。

人は生まれながらに愛する心や尊敬する心、いたわる心と同じに
祈る心を持っています。

祈りとは人間だけが持つ心の働きであり智慧なのです。
この祈りの心は、絶対的な強い力を持つ神にたいする祈り
救いを求める仏に対する祈りなどとともに、
亡くなった人に対する祈りがあります。

墓や仏壇は、亡くなった人への祈りの場の原点なのです。






お墓とは、ただ故人の遺骨を納めるためだけに必要なのではなく、
また仏壇とは位牌を置くためだけに在るのではありません。

敢えて誤解を恐れないで言いますと、墓への納骨は二次的なことであって
本筋はあくまで、祈りと祭祀にこそあります。

遺骨は自然界に還し、生命としての霊を祀り、その安静を祈るのです。

生命を育み保つことが出来なくなった遺体は
古来よりさまざまな方法で自然界に還されてきました。
大きく分けますと風葬、水葬、土葬、火葬に分けられます。

最近の自然葬や散骨などと呼ばれている葬送形式も古い時代の日本にあった形式の一つで、遺体や遺骨を自然に還すことから見ますと理に合っているとも言えますが、だからと云って墓が不必要になるものではありません。


もっとも大切な祀りの心を忘れてはいけません。


いつの頃からか祀ったり拝んだりをする対象が、故人や先祖の霊から遺骨そのものになって、ある意味では遺骨崇拝的な唯物的な先祖まつりが主流になり、生命や霊が置き忘れられてきたと同時に、墓自体が石材業者や霊園業者の商品と 考えられるようになってしまいました。

たとえ自然葬や散骨といった形式で葬儀を営んで遺骨が手許にない場合でも、祭祀供養の場としての墓は、何らかの形でも必要なところであり、なくてはなりません。

 

 

人の生命は清らかな土や水や空気と云った
豊かな自然界のなかでこそ巡ります。

近年は墓が「家」とか「柵(しがらみ)」の象徴のように言われますが、
一つの永遠の生命を持つ人間として、祀り奉られる墓は、
一つの生命の証であり根源になるものです。

「一切衆生悉有仏性(一切の衆生は悉く仏性を有する)」という一説が
大乗経典の『大般涅槃経』にあります。

これは、すべての人間の魂の根本には
純粋清浄な本性としての仏性がある、という意味ですが、
難しい経典の一説を取り出して説明をするまでもなく、
観念として誰もが認識できることです。

一切の人間が仏性として、
あるいは仏としての魂を根本に持っていると云うことは、
その仏ご自身が永遠の生命を持っておられるので、
人の本性としての魂もまた永遠なものでなくてはならないと同時に、
その根源には如来蔵と云われる純粋な生命があるのです。

死とは人の肉体を組織している物質のありさまが変化をするだけで、
人の霊魂としての生命は永遠なものです。

この永遠な生命の健やかな継承と巡りに導くことが
供養であり、回向であり、祈りということであって、
その原点が墓にあります。

 

 

例えば、墓や供養塔についてよくある質問ですが、 墓地が狭い場合には、無理に五輪塔に拘らなくても善い形があり、 また御宗旨によっては五輪塔や梵字を好まないところもあります。

あるいは反対に、五輪塔一基をもって、納骨と供養を備えることが出来る場合もあります。


子供が女性ばかりで(一人娘も含め) 結婚したあとのお墓の維持が心配な場合には、 五輪塔一基は善い祀り方です。


仏壇が狭かったり用意をしてない場合には、 過去帳に三十番仏の種子(梵字)を標して、お祀りをするなどの方法があります。