2001/02/05

鎌倉の窓

 

鎌倉の大仏

鎌倉の大仏

 あまりに有名な鎌倉の大仏です。建長4年(1252)に造られ、当時は金箔が貼られ、大仏殿の中に納まっていましたが、明応4年(1495)の津波によって堂が倒潰して露座になり、今日に至っています。最近の発掘調査では当時の大仏殿の礎石などが確認されています。この上品上生の阿弥陀如来は、浄土宗の光明寺のもと奥の院であった、大異山高徳院清浄泉寺の今も御本尊です。
 鎌倉のシンボル的な存在で、身長(坐長)は11.31メートル、お顔の長さは2.35メートル、目の長さは1.00メートル、口の幅は0.82メートル、総重量121,000s、螺髪は656個と云われております。因みに奈良の大仏は16メートルとされています。

 

大仏のお顔

大仏のお顔

   かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
              美男におわす 夏木立かな

 与謝野晶子の歌ですが、実は上品上生の阿弥陀如来です。額の白毫は白銀で作られているそうで、その眼差しは750年も人々の営みを見つめてこられました。

 

鶴ヶ岡八幡宮 旗上弁財天

鶴ヶ岡八幡宮 旗上弁財天

 寿永元年(1182)に北条政子が、大庭景義や専光坊に命じて八幡宮境内の東西に池を造らせ、東の池は源氏として三つの島を造り、三を産として祝、西の池は平家として四つの島を造り、四を死として、平家の滅亡を祈ったとされます。その後、東の池に弁財天を祀ったことが旗上弁財天の興りです。しかし明治の神仏分離で破却され、昭和31年になって篤信家によって再興されて、昭和55年の鶴ヶ岡八幡宮800年を記念して古図に基づき復元されました。なお、これらの島は今も残っています。

 

銭洗い弁財天

銭洗い弁財天

 正式には宇賀福神社と云い、この鳥居に続く洞窟を抜けたところに神社があります。
 それは文治元年(1185)巳の年の巳の月、巳の日の夜中に源頼朝の夢に一人の老人が現われ、「ここから西北の方の谷に、綺麗な水が岩の間から湧き出ているところがある。これは福の神が神仏に供えているという不思議な水で、誰も知らない。今後これを汲んで、絶えず用いて神仏を供養せよ。そうすれば悪い神は何時か去り、天下は平和に栄えるであろう。わしは宇賀福神である。」と云って姿を消しました。
  頼朝は早速にこの場所を探し出して、宇賀福神を祀り、世を安定させました。後に北条時頼が頼朝の心を継いで辛巳 (カノトミ)の日を選んで人々に参拝させ、自己も信仰深く清水で通宝を洗ったところ、大いに栄えたことから、広く世の信仰を得るようになりました。今年は辛巳の年です。

 

銭洗弁財天境内

銭洗弁財天境内

 20メートルほどの洞窟を抜けると隠れ里のような境内が広がります。正面奥の岩屋の中がこんこんと清水が湧き出ている奥の院です。そこで参拝者はお金を洗います。

 

銭洗い風景

銭洗い風景

 参拝者は備え付けのザルにお金を入れて、柄杓に汲んだ清水をかけます。

 

和賀江島弁財天

和賀江島弁財天

 材木座光明寺本堂に祀られている八臂弁財天です。和賀江島に流れてきたと伝えられていますが、もとは江島神社に祀られていた弁財天が、廃仏毀釈によってここに運ばれたものと考えられます。 綺麗なお顔で皆さんに福を授けて居られます。

 

和賀江島と立春の相模湾

和賀江島と立春の相模湾

 現存している我が国最古の中世の築港跡です。鎌倉時代にはここに港があって、中国(宋)とも交易がありました。建保4年(1216)に源実朝は宋の陳和卿の勧めに従って、宋に渡る計画を立てここで大きな唐船を建造しました。ところが、この浜は遠浅のために進水が出来ないまま、船は朽ちたと云われています。いまは石だけが残っていて、満潮の時にはこの様に微かに確認ができる状態です。遠くに稲村ヶ崎と江ノ島がかすんでいます。

 

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